きりのちはれ

やみときどきひかり

おもうがままに。

【ネタバレ】打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 斜めから見るか?

(あとで推敲する.とりあえず勢いで書いた.)

観た。 ストーリーとかは全然知らなかったが、なんとなくtwitterで観測された範囲で評判があまり良くないな、という程度の認識はあった。

とりあえずざっくり、悪くなかった。 いやむしろ、個人的には主題がシンプルでとても好みだった(と、私は受け取った)。

映画の感想とかを書く時はなるべくネタバレしないように心がけているのだが、 本作についていうとネタバレなしは難しいので遠慮なく書きたい。 といってもネタバレというほどの鍵が存在する話かと言われると【?】だったが。

なお、私は原作を知らないので、もしかしたら元々の作品ではより明解な答えが与えられているのかもしれない。 だがそこはひとまずスルーして、この映画作品単体を観た感想として好き勝手述べたい。

種々の感想に対する違和感(あるいは大勢に意義を唱えるオレカッケー)

鑑賞後に見聞きした(批判的な)感想の多くは以下の2つの属性を含んでいるように感じた。

もちろん肯定的な感想もあり、それは主に文学的、なずな可愛い、という趣旨だった。 ※なずなが可愛かった点について違和感はない。

問. これはタイムリープものであるか

水泳の競争に負けたのりみちはなずなに選ばれず、 その結果なずなは何も叶えることなく母親に連れ戻されることになる。

のりみちは「もしも自分が勝っていたら」という後悔を込めてガラス玉を投げつける。 ここから場面は撒き戻り、のりみちが競争に勝った世界が始まる…。 しかしその先でも失敗し、再びガラス玉を投げつけ…。 繰り返し歪んでいく世界の先でラストシーンを迎える。

確かに場面としては時間が戻っているので、タイムリープものとも言える。 だが、果たして本当にタイムリープしていたのだろうか?

この作品にはすごく恣意的な台詞回しや演出が散りばめられていた。

  • ガラス玉の中のif
  • 「もしも俺が勝っていたら」
  • 「花火が平べったい世界なんてあるわけねーじゃん」

これらから読み取るべきは、のりみちが描いた「もしも」の話なのだということではないだろうか。 時間を遡ったとしても、花火が平べったくなる道理はないのだ。 電車の中でなずなが歌って踊って白馬の馬車で飛び立つのも、海の上を走る電車も、 「のりみちとなずなの夢のような世界」であって、時間をやり直してたどり着ける場所ではない。

のりみち自身「よくわからないけど大丈夫」だと言っている。それもガラス玉を投げる事なく、だ。 ガラス玉によって魔法が起こるのではなく、のりみちが願えばその通りになるのだ。

ガラス玉には時間を遡る力と世界を変える力の2つがある、という解釈もできる。 あるいはなずなの馬車や海の電車は、視聴者に向けたアニメーションとしての演出である、という解釈もできる。 しかしそのどちらもこの作品の雰囲気…方向性?とは随分遠くはないだろうか。 あまりに「ご都合主義的」過ぎるし、突拍子がない。 実際、世間にあふれる低評価はそこに起因していると思う。

-なずなの可愛さに免じて- この作品を楽しむ気持ちで、肯定的にそのご都合を解釈したい。 描かれていたのは「作品として都合の良い展開」ではなく、「のりみちが描いた都合の良い展開」なのだ。 その展開が、ガラス玉の不思議な力によってのりみちの体験(=異世界)となったのか、 はたまたガラス玉の煌めきの中に走馬灯のように見た、ただの妄想だったのかはわからないが。

ゆえに『打ち上げ花火、横から見るか?下から見るか?』は、平行世界を描いているかも知れないが、タイムリープを主題に据えた作品ではないだろう。

問. 君の名は。と比べるな、は妥当か?

君の名は。』と比べて、結局どうなったのかわかりづらいとかご都合主義とかそういう見解はわかる。 そしてそれらの声に対して、「楽しみ方が違うので比べるものではないよ」というのもわかる。 (「楽しみ方の違い」が少年少女の心理描写の繊細さを、という側面を指しているのだとすればなおのこと)

だが、先に述べたように、この作品がタイムリープが主題でないと捉えるとどうだろうか。

のりみちの主観として不思議な出来事は起きているが、それはあくまで彼の内面的な出来事であって、作品世界における事実ではない。

君の名は。』は、タイムリープと彗星という2つの不思議な出来事に軸足をおいた、「物語的な」作品だった。 2つの出来事に起因する大きなストーリーラインを美しい映像や心地よいテンポで描き出した名作だ。 それに対して、ご都合主義、ファンタジーに思われがちな本作の方こそ、実はなんの不思議もないただの少年の夏の日になるのだ。

君の名は。』と比べることは間違っていないと思う。 大局的にある構成に着目して、その印象の違いを感じるのはおもしろいことだと思う。 そしてその違いを認識した上で、やはりこの2つの作品の楽しみ方は違うだろう。

偉そうに自分の解釈を述べてみる。

さて、作品の楽しみ方がどうのこうのと言ったが、結局のところこの作品は何だったのだろうか。 以下の2つがこの作品の見所だったと思う。

  • 少年少女の心理描写
  • ストーリー全体を通して伝えられるメッセージ性

前者については、作品を見た誰もが印象的に感じたことと思う。 「なんでそんなことをするのか」と感じる振る舞いがたくさん描かれており、 そこに至る子どもたちの心の機微を推察するのが非常に楽しい。 一見すると意味がわからないように思えるので、直接的な表現を好む人からすると非常に遠回りで微妙に感じるだろうが。 (そしてそのあたりを指して文学的という評価なのではなかろうか)

個人的には後者のメッセージ性が非常に印象的で、素敵な作品だと感じた。

この作品から伝わるメッセージとはなんだろうか。 鍵となる要素はたくさん散りばめられているが、

「花火が平べったい世界なんてあるわけねーじゃん」

のりみちはなずなと居られるもしもの世界を思い描く。 しかしその世界を思い描く前の現実で、のりみちは明確に認識しているのだ。「平べったい花火はありえない」と。 そして思い描いた世界では平べったい花火や、明らかに異常な花火が打ち上げられる。

つまり、なずなの手を取って走り出す世界は、ありえないことだとのりみち自身が知っているのだ。 あの世界で打ち上がる花火は丸くならないのだ *1

灯台行くのやめね?普通に見ようぜ」

最後に思い描いた、歪みきった世界は、花火師が打ち上げる花火で終わりを告げる。 そう、花火師が打ち上げる花火はやっぱり丸いのだ。 そしてifの世界は砕け散る。

のりみちは最後に花火を下から見る。 「下から見る」のは「普通のこと」なのだ。

のりみちは、丸い花火が打ち上がることを、もしもの世界が砕け散ることを、「普通のこと」を受け入れる。 そんな都合の良い世界がありえないということを、認めるのだ。

砕け散るもしもと空席

砕け散ったifのガラス片の中には、たくさんのもしもの場面が映し出される。 みんなはありえないことを願い、叫び、「もしも」を見送る。

そんな中、都合の良いことは起こらない、普通のことを受け入れたのりみちが、 自らの手でなずなと居るもしも=世界を選び取った。

そして迎えた現実の世界では、なずなの空席とのりみちの不在が描かれる。

のりみちがどのような行動を取ったか、その後どうなるのかははわからないが、 なずなと居られる未来のために、「もしもあのとき」という後悔をしないために、のりみちは行動を起こしたのだろう。

一見すると 「if」が起こる都合の良い物語だが、自分はこの物語はその逆のことを伝えているように思う。 どれだけ「if」を思い描いても、現実(なずなの転校)を変えることは出来ないのだ。

「現実を受け入れ、ifなんて無いのだと理解した上で、現実で行動すること」こそが、この物語のメッセージではないだろうか?

面白かった。もう一度見ても良いかも。

*1:あと先生の胸も平面的で小さい